愛だろ、愛。

耳のこり

耳のこり

「伝説的シリーズ、最後の文庫化」なんだそうである、帯によれば。伝説になっちゃったんだなあ。一昨日、たまたま迷い込んだナンシー関賞の話に見事に騙されたところだったので、なんともしみじみした気分で読了。愛ね、と思った次第である。
ナンシー関の文章には、常に「テレビ」への愛が存在していたと思う。だから、どんなに辛辣なことを書いていても読後感が悪くなかったと思うのは私だけであろうか? 多くの人に愛され、惜しまれているのは、ナンシー関の愛が伝わっていたからではないだろうか?
私もテレビを愛していた。大学進学にともなって一人暮らしを始めるにあたって、下宿にテレビを入れないことにしたのは、その愛ゆえに下宿から出なくなることを自分なりに危惧したからであったほど(でも睡眠や小説への愛で結局下宿から出ないこともあったが)。だから、そんなテレビが「くだらない」ことをするのが許せない故に、ナンシーの舌鋒の冴えがいちいち快かったものである。
前にも書いたことがあるのだが、私は週刊朝日連載中のコラムを読みながら、かなり長いことナンシー関を40代か50代の男性だとばかり思っていた。「ナンシー」なのに。何でそう思い込んだかは不明だが、そう思って読めば今でもそう思えなくもない。文章に性別とか年代に依存する表現がほとんど見受けられないからだ。文章がうまい人である。
かなり手放しで好きなナンシー関だが、認識不足ね、と思ったことが2点程あった。1つは、落語を知らないこと。民放で落語をやらないからであろう。あとは、東日本出身東京在住者の視点しか持てないこと。中部以西に対する認識がゼロ。これも、東京のテレビを見てるからなんだな。要するに、ナンシー関は身も心も東京発の民放テレビに捧げていたんだなあ、との認識が強まるばかり。愛である。
今、ナンシーがいたら、これをどんなふうにいうんだろう、と思うことは日々増えるばかりである。嗚呼、本当に惜しい人を亡くしたものです。合掌。